2011年8月2日火曜日

生鉄仏 崔道成

第六回に登場する盗賊。五台山を追放されて東京へと向かう魯智深は、その途上で打虎将の李忠と再会するが、李忠やその山賊仲間の小覇王の周通が意外に「みみっちい」男であることを知ると山塞を下りてしまう。しかしいくらか行ったところで腹が減り、「瓦罐寺」という破れ寺で食物をわけてもらおうとする。だが、この寺には骨と皮ばかりになった老僧が幾人かいるだけで、食べ物はないという。二人の盗賊が住み着いてしまって、官憲の取り締まりも届かないというのだ。この盗賊というのが、生鉄仏の崔道成である。もう一人は、飛天夜叉の丘小乙というエセ道人。

魯智深は無論、二人を退治して食物にありつこうとするが、この崔道成もさるものである。こちらは武器の用意もなく形勢不利と見るや言葉たくみに魯智深を騙して追い返す。再び魯智深がやってくると、今度は朴刀をもってまがりなりにも魯智深と渡り合うばかりか、二人がかりとはいえ魯智深を撃退するのである。結局は、逃げ出した魯智深が九紋竜の史進と偶然にも再会し、腹ごしらえを済ませて戻ってくると、腹一杯で元気な魯智深と超強力助っ人・史進の前にあっけなく敗れさるのだが。

何でまたこんな小悪党をここで取り上げたかというと、この場面、個人的に好きなのだ。魯智深は水滸伝の好漢たちの中でも非常に人気が高く、作品を代表する豪傑であると言ってもよい。これがもし『三国志』なら、同じ立場にあるのは恐らく関羽だろう。ところがこの二人、強いという以外全く似ていない。無論関羽だって負けることはあるだろうが、その時関羽はなんと言うだろうか。「無念であるが多勢に無勢、ここは一旦退くべし」てな感じか。少なくとも「こいつぁいけねえ、三十六計逃ぐるに如かずだ。すきっ腹を抱えて二人相手じゃあ勝ち目はねえや」とは言わないだろう。しかも助っ人として登場する史進は、こともあろうに追いはぎとして魯智深を狙うのだ。切り結ぶうちに気付いて「やや、魯達どのではないか」「おう、お主は九紋竜・・・」ということになるわけだが、乞食坊主と追いはぎの組み合わせでは何ともなさけない。読者としては微笑ましい限りである。もちろん、当人たちにとっては死活問題なわけだが・・・。

『水滸伝』の面白さを象徴する場面、といったら言い過ぎだろうか?

2011年8月1日月曜日

智真長老

第四回に登場する、五台山文殊院の長老。第三回で鄭屠を殴り殺して渭州を抜け出した魯達は、代州雁門県で歌うたいの金親子と再会する。娘の金翠蓮が、土地の有力者である趙員外の妾となっていたので、魯達もそこにかくまわれることになったのである。趙員外魯達に出家を勧める。出家とは俗世とのつながりを断つことだから、犯した罪も赦されるのである。また免税の対象にもなるため希望者は多く、普通はなかなか出家は許されない。しかし、幸い趙員外は「出家許可証」ともいうべき「五花度牒」を、大金をはたいて購入していた。自分の代わりに誰かを出家させて、これをもって功徳を積んだことにする金持ちが多かったのである。

そんな次第で魯達が向かったのが、趙員外が先代から多くの喜捨をしている五台山文殊院であった。その山をとりしきるのが、この智真長老である。首座や監寺などが魯達の人相風体の悪いのを見て、その入山に反対する中、長老一人は入山を許すばかりか「智深」という自らの名から一字を取った法名を与える。更に、魯智深が禁酒の戒律を破った挙句大暴れをした際にも、これをかばう。流石に二度目はかばいきれずに追放を認めるが、この時も魯智深の未来を予言した四句の偈を送ったうえ、身の落ちつけ先まで面倒をみてやるのだ。

これらの行動は、魯智深が108の宿星の一人であることを知ってのこと、ということになっている。また、酒に酔って誰にも止めようのない魯智深を一喝で黙らせるシーンなどは、相当の人物であることを窺わせる。ところが、魯智深の追放を訴える首座に対する言葉を見ると、「何を言うか、趙檀越の手前もあるぞ!」と俗っぽい。また、魯智深を追放するにあたっても、弟弟子である東京大相国寺の智清禅師におしつける。智真長老のほうが立場が強いわけだから、智清禅師としては断ることもできず、全く迷惑千万な話であるはず。そう考えると、評価の難しい人物かもしれないが、その辺はまあ、気にしない、気にしない・・・。

2011年7月26日火曜日

鎮関西・鄭屠

第三回に登場する、渭州の肉屋。九紋竜の史進・提轄の魯達(後に花和尚の魯智深)・打虎将の李忠が意気投合し、酒場で一杯やっていると、となりの部屋からすすり泣きが聞こえてくる。気分を害した魯達が泣いている歌うたいの親子を呼びつけて事情を聞くと、「鄭の大旦那」に騙されて大きな借金をでっちあげられてしまい、その取り立ての厳しさにつらくなって泣いていたのだという。こうなると黙っていられないのが好漢の好漢たる由縁であって、魯達は「鄭の大旦那」鄭屠を懲らしめるつもりで殴り殺してしまう。この事件によって魯達は坊主に身を変えて法名を智深とし、「花和尚の魯智深」と呼ばれるようになるわけだ。

さて肝心の鄭屠である。作中では「鄭の大旦那」などと呼ばれ、あだ名も「鎮関西」というたいそうなものである。魯達などは「ブタ殺しの鄭か」などと侮っているが、実は結構な顔役だったのかもしれない。水滸伝に登場する人物のあだ名は、人からつけられたものと自分で名乗ったものがあるが、仮に自分で名乗ったにせよこれ程大袈裟なあだ名を名乗るからにはやはり自信があったのだろう。その自信も、魯達の拳三発であっけなく叩き潰されてしまうわけだが。

今でこそ水滸伝は百回・百二十回本まで読むべきであるとされているが、以前は七十回本のほうが人気があった。理由は、七十回までとそれ以降で、作者の文章力があきらかに違うというもの。通俗小説が複数の作者の手になるのは普通のことなのでこれは不自然なことではないのだが、この魯達の拳三発の場面はそれが最も良く現れている場面の一つだろう。ほとんどあらすじの箇条書きに近い七十一回以降と比較して、決して上品とは言えないものの、非常に生き生きとした表現が用いられている。ただし、食事中に読むのは避けたほうがいいかも。

2011年7月16日土曜日

蘇轍

第二回に登場する、北宋の文学者。一般的には、同じく文学者でもあり政治家でもあった蘇軾の弟として有名である。蘇軾は号を東坡居士といったため、蘇東坡とも呼ばれる。政治家としても施政官として善政を行った記録が残っており、教科書には旧法党の士大夫としての名前も残っているが、特に詩人としての名声が高く、現代日本にも多くのファンを擁する、軍人以外では極めて稀な人物である。同時に詞の大家でもあり、現在でも宋代の文学者としては最高の評価を受けている。そんなわけで蘇轍のほうは偉大すぎる兄の陰に隠れがちだが、自身も当代の大文学者であり、唐宋八大家の一として数えられる。進士にも兄とともに及第している。父親の蘇洵も唐宋八大家の一(ただし進士には合格していない。余談)。親子三人で大文学者なわけだ。蘇洵は老蘇学士、蘇軾は大蘇学士、蘇轍は小蘇学士と呼ばれ、あわせて「三蘇」と呼ばれる。『水滸伝』に登場するのは蘇轍で、小蘇学士の名前で登場している。で、その役割であるが、水滸伝最大の悪役である高毬(のちに高[イ求])を、端王(のちの徽宗)に推薦したのは王晋卿。その王晋卿高毬を推薦したのが、この”小蘇学士”蘇轍なのであった。ただそれだけ。作品中では悪役が大出世する手助けをしてしまっているわけだ。

笵仲淹

 第一回に登場する、北宋の政治家。『水滸伝』作中では、皇帝仁宗虚清天師を召し出すよう進言する役を演じている。同じく第一回に登場し、仁宗に大赦の御礼を奏上した文彦博らとともに、仁宗期の北宋を代表する政治家である。歴史の教科書に出てくるほど有名な人ではないが、中国史好きなら名前くらいは大抵知っているだろう。恐らくもっとも有名なのは「先憂後楽」の四字熟語。「士は天下の憂いに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむべし」という、笵仲淹の発言から出た言葉である。「士大夫たるもの、常に先を見通していなくてはならない」という意味であって、決して「先に面倒を片付けて、後からゆっくり楽しもう」という意味ではない。士大夫というのは要するに官僚のことで、当時の中国では政治家=官僚だから、政治家の心得を言ったものなのである。
西夏の侵入を防いだり、副宰相などの役職を歴任したエリートでもあり、特徴的な「宋代の士風」を代表するような人物であるが、民衆を気遣って虚清天師による祈祷を奏上するという、名臣ならではの役目を与えられている。実際の笵仲淹はこのあと政敵によって左遷され、そこで病没してしまう。そして、彼や文彦博欧陽修などの当代の名臣たちが登用した、有能かつ清廉潔白の士である司馬光王安石によって新法・旧法論争が巻き起こり、やがてはそれが党争へと発展して宋王朝は混乱していくのである。

2011年7月6日水曜日

虚清天師

第一回に登場する、道教のえらい人。道通祖師、あるいは張天師とも呼ばれる。国内に広く蔓延する疫病に頭を痛めた当時の皇帝仁宗に、疫病を静めるために祈祷を命じられたのがこの虚清天師である。仁宗は使者として大尉の洪信を派遣し、虚清天師を召し出そうとした。洪信は険阻な山道を乗り越えて天師をたずねたが、天師は皇帝仁宗が自分の祈祷をたのみにしていることを自らその道術によって知り、洪信が到着する前に急ぎ出立していたのである。実は洪信は道すがら一人の童子に出会っており、その童子こそが虚清天師であったのだ。肩透かしを食わされた洪信は、好奇心から「伏魔殿」の封印を解き、108星の魔王を解き放ってしまう。この108の魔王こそ後に梁山泊に集う好漢なわけだから、これがすべての発端となった事件なわけだ。

道教のえらい人で、別名「張天師」となると、思い当たる節があるかもしれない。水滸伝の読者の多くは「三国志」も読んだことがあるだろう。その中に、「五斗米道」なるものが登場する。その指導者は張魯。彼の祖父の張陵(張道陵)という人物が、実は初代の「張天師」なのである。本来は漢代の人である張陵は「漢天師」と呼ばれ、その子孫は「嗣天師(或いは嗣漢天師)」と呼ばれたようだが、それが一括して「張天師」と呼ばれるようになったらしい。つまり「張天師」は、漢代から連綿と続く道教の指導者の嗣号のようなものと言えるだろう。ようするに張さんの家が代々天師稼業をやっているのだ。

洪信との行き違い(と言っても天師のほうは確信犯)の話は、恐らくモチーフになったものと思われる説話が残っている。皇帝の病を治すために道士を召し出したところ、やはり勅使は道士に会うことができず、やむなく引き返すと、既に道士が自ら皇帝の下に参じて病を治療し、去った後だったというもの。水滸伝は多くの民間説話を取り込んで成立しているが、その代表的な例の一つと言えるだろう。