2011年7月26日火曜日

鎮関西・鄭屠

第三回に登場する、渭州の肉屋。九紋竜の史進・提轄の魯達(後に花和尚の魯智深)・打虎将の李忠が意気投合し、酒場で一杯やっていると、となりの部屋からすすり泣きが聞こえてくる。気分を害した魯達が泣いている歌うたいの親子を呼びつけて事情を聞くと、「鄭の大旦那」に騙されて大きな借金をでっちあげられてしまい、その取り立ての厳しさにつらくなって泣いていたのだという。こうなると黙っていられないのが好漢の好漢たる由縁であって、魯達は「鄭の大旦那」鄭屠を懲らしめるつもりで殴り殺してしまう。この事件によって魯達は坊主に身を変えて法名を智深とし、「花和尚の魯智深」と呼ばれるようになるわけだ。

さて肝心の鄭屠である。作中では「鄭の大旦那」などと呼ばれ、あだ名も「鎮関西」というたいそうなものである。魯達などは「ブタ殺しの鄭か」などと侮っているが、実は結構な顔役だったのかもしれない。水滸伝に登場する人物のあだ名は、人からつけられたものと自分で名乗ったものがあるが、仮に自分で名乗ったにせよこれ程大袈裟なあだ名を名乗るからにはやはり自信があったのだろう。その自信も、魯達の拳三発であっけなく叩き潰されてしまうわけだが。

今でこそ水滸伝は百回・百二十回本まで読むべきであるとされているが、以前は七十回本のほうが人気があった。理由は、七十回までとそれ以降で、作者の文章力があきらかに違うというもの。通俗小説が複数の作者の手になるのは普通のことなのでこれは不自然なことではないのだが、この魯達の拳三発の場面はそれが最も良く現れている場面の一つだろう。ほとんどあらすじの箇条書きに近い七十一回以降と比較して、決して上品とは言えないものの、非常に生き生きとした表現が用いられている。ただし、食事中に読むのは避けたほうがいいかも。

2011年7月16日土曜日

蘇轍

第二回に登場する、北宋の文学者。一般的には、同じく文学者でもあり政治家でもあった蘇軾の弟として有名である。蘇軾は号を東坡居士といったため、蘇東坡とも呼ばれる。政治家としても施政官として善政を行った記録が残っており、教科書には旧法党の士大夫としての名前も残っているが、特に詩人としての名声が高く、現代日本にも多くのファンを擁する、軍人以外では極めて稀な人物である。同時に詞の大家でもあり、現在でも宋代の文学者としては最高の評価を受けている。そんなわけで蘇轍のほうは偉大すぎる兄の陰に隠れがちだが、自身も当代の大文学者であり、唐宋八大家の一として数えられる。進士にも兄とともに及第している。父親の蘇洵も唐宋八大家の一(ただし進士には合格していない。余談)。親子三人で大文学者なわけだ。蘇洵は老蘇学士、蘇軾は大蘇学士、蘇轍は小蘇学士と呼ばれ、あわせて「三蘇」と呼ばれる。『水滸伝』に登場するのは蘇轍で、小蘇学士の名前で登場している。で、その役割であるが、水滸伝最大の悪役である高毬(のちに高[イ求])を、端王(のちの徽宗)に推薦したのは王晋卿。その王晋卿高毬を推薦したのが、この”小蘇学士”蘇轍なのであった。ただそれだけ。作品中では悪役が大出世する手助けをしてしまっているわけだ。

笵仲淹

 第一回に登場する、北宋の政治家。『水滸伝』作中では、皇帝仁宗虚清天師を召し出すよう進言する役を演じている。同じく第一回に登場し、仁宗に大赦の御礼を奏上した文彦博らとともに、仁宗期の北宋を代表する政治家である。歴史の教科書に出てくるほど有名な人ではないが、中国史好きなら名前くらいは大抵知っているだろう。恐らくもっとも有名なのは「先憂後楽」の四字熟語。「士は天下の憂いに先んじて憂え、天下の楽しみに後れて楽しむべし」という、笵仲淹の発言から出た言葉である。「士大夫たるもの、常に先を見通していなくてはならない」という意味であって、決して「先に面倒を片付けて、後からゆっくり楽しもう」という意味ではない。士大夫というのは要するに官僚のことで、当時の中国では政治家=官僚だから、政治家の心得を言ったものなのである。
西夏の侵入を防いだり、副宰相などの役職を歴任したエリートでもあり、特徴的な「宋代の士風」を代表するような人物であるが、民衆を気遣って虚清天師による祈祷を奏上するという、名臣ならではの役目を与えられている。実際の笵仲淹はこのあと政敵によって左遷され、そこで病没してしまう。そして、彼や文彦博欧陽修などの当代の名臣たちが登用した、有能かつ清廉潔白の士である司馬光王安石によって新法・旧法論争が巻き起こり、やがてはそれが党争へと発展して宋王朝は混乱していくのである。

2011年7月6日水曜日

虚清天師

第一回に登場する、道教のえらい人。道通祖師、あるいは張天師とも呼ばれる。国内に広く蔓延する疫病に頭を痛めた当時の皇帝仁宗に、疫病を静めるために祈祷を命じられたのがこの虚清天師である。仁宗は使者として大尉の洪信を派遣し、虚清天師を召し出そうとした。洪信は険阻な山道を乗り越えて天師をたずねたが、天師は皇帝仁宗が自分の祈祷をたのみにしていることを自らその道術によって知り、洪信が到着する前に急ぎ出立していたのである。実は洪信は道すがら一人の童子に出会っており、その童子こそが虚清天師であったのだ。肩透かしを食わされた洪信は、好奇心から「伏魔殿」の封印を解き、108星の魔王を解き放ってしまう。この108の魔王こそ後に梁山泊に集う好漢なわけだから、これがすべての発端となった事件なわけだ。

道教のえらい人で、別名「張天師」となると、思い当たる節があるかもしれない。水滸伝の読者の多くは「三国志」も読んだことがあるだろう。その中に、「五斗米道」なるものが登場する。その指導者は張魯。彼の祖父の張陵(張道陵)という人物が、実は初代の「張天師」なのである。本来は漢代の人である張陵は「漢天師」と呼ばれ、その子孫は「嗣天師(或いは嗣漢天師)」と呼ばれたようだが、それが一括して「張天師」と呼ばれるようになったらしい。つまり「張天師」は、漢代から連綿と続く道教の指導者の嗣号のようなものと言えるだろう。ようするに張さんの家が代々天師稼業をやっているのだ。

洪信との行き違い(と言っても天師のほうは確信犯)の話は、恐らくモチーフになったものと思われる説話が残っている。皇帝の病を治すために道士を召し出したところ、やはり勅使は道士に会うことができず、やむなく引き返すと、既に道士が自ら皇帝の下に参じて病を治療し、去った後だったというもの。水滸伝は多くの民間説話を取り込んで成立しているが、その代表的な例の一つと言えるだろう。